
前回のコラムでは、従業員の創造性を引き出すためのあるべきオフィス戦略論について考察を行ったが、今回はそれを踏まえて、先進的なオフィスづくりに取り組む事例を紹介し、その上で経営戦略としてのオフィス戦略の今後の在り方に関わる論点を改めて整理したい。
先進的なオフィスづくりに取り組む事例では、本社機能などのオフィス移転・集約を契機に、業務改革やワークスタイル変革を標榜したオフィス改革を新たに断行するケースが多く見られる。そこで、まず最近のオフィス移転の傾向・特徴について簡単に触れたい。
全体の傾向としては、ハイスペックを備えた最新鋭の新築賃貸ビル、いわゆるAクラスビルへ移転するケースが多いとみられる。シービーアールイー(CBRE)の2013年調査によれば、東京23区内に本社を置く上場企業1,720社のうち、本社が賃貸ビルの企業は情報通信、サービス、金融などのセクターを中心に74%を占めるという(注1)。
最近のオフィス移転で、多くの企業が賃貸ビルを選好する背景としては、①2008年の世界金融・経済危機以降、オフィス賃料が低下傾向となり、とりわけ大規模ビルの賃料が大幅に低下したこと(ただし、2013年以降、東京都心部Aクラスビルの市況改善が進展)、②BCP(事業継続計画)に対応できる設備仕様などハイスペックを備えたAクラスビルが2012年を中心に大量供給されたこと、③資本市場から資産効率向上の要請が強まる中、企業は不動産の取得・所有によりバランスシートが膨らむことを回避しようとしていること、④社員の増減に機動的に対応できる柔軟性を確保できること、などが挙げられる。なかでも東日本大震災以降、ビルの耐震性能や自家発電機能など安全性・BCPの要因がこれまでより強く意識されるようになり、最新の防災機能を持つ賃貸ビルへのニーズが高まっているとみられる。
ただし、一方で都内で老朽化した自社ビルを建て替えたり、新たに建設した自社の新社屋に移転・集約するケースも一部で見られ、企業が必ずしも賃借一辺倒の意思決定をしているわけではないことには、留意を要する。後述する通り、不動産の所有・賃借の選択は、複数要因の最適化により決定されるため、基本的には企業によって最適解は異なると考えられる。
また、最近大量供給された賃貸ビルには、フロア面積の広いメガプレートを備えた大規模ビルが散見され、そのようなビルへ戦略的に移転するケースも見られる。その戦略的な狙いとは、分散していた本社機能などを1つのビルに集約し、しかも関連性のある複数の部署やグループ会社をワンフロアに集めることにより、社内のインフォーマルなコミュニケーションやコラボレーションの活性化を図り、グループのシナジー創出につなげることだ。これは前回のコラムで紹介した「企業内ソーシャル・キャピタルを育む視点」に他ならない。
例えば、キリンビール、キリンビバレッジ、メルシャンなどを傘下に持つキリンホールディングスは、2013年5月に東京都中央区新川など12拠点に分散していたグループ17社の本社機能を、中野に竣工した新築大型賃貸ビルである中野セントラルパークサウスに移転・集約した。同ビルの基準階1フロア面積は、5,057.09m²(約1,530坪)に達し都内最大級だ。また、三菱化学、三菱樹脂、三菱レイヨン、田辺三菱製薬を傘下に持つ三菱ケミカルホールディングスは、2012年7月に東京都港区田町などに分散していた事業会社の本社機能を、丸の内に竣工した大型賃貸ビルであるパレスビルに移転・集約した。同ビルの基準階1フロア面積は、約2,096m²(約634坪)であり、大規模ビルの範疇に入る。
先進的なオフィスビルへの戦略的な投資事例として、米ヒューレット・パッカード(HP)が日本法人の日本ヒューレット・パッカード(日本HP)の新本社ビルを構築した事例を取り上げる(注2)。
HPは戦略的な投資分野として、M&A、データーセンターなどのITに加え、ワークプレイスと人材を挙げており、従業員が集うオフィスを重要な投資分野と明確に位置付けている。
日本では、日本HPが2011年5月に自社所有の新本社ビルを東京都江東区大島に開所した。2002年のコンパックコンピュータとの合併以降、東京都内に賃借中心のオフィスが分散していた。そこでHPは、重要拠点と位置付けている日本において、都内に分散しているオフィスを統廃合し、賃料削減等によるキャッシュフローの改善と業務効率の向上を図るために、新本社ビルへの大型投資を実施した。都内最大級の基準階面積(約5,607m²)を有する新社屋に約5,200人が移転し、市ヶ谷(旧本社)などの拠点は閉鎖された。
1人当たりオフィスコストの半減という経営目標に加え、環境負荷を軽減する「サステナブルデザイン」、HPの最先端のテクノロジーとサービスを顧客が体感できる「ソリューションショーケース」、従業員の働き方の多様性をサポートしつつ、社内のコミュニケーションとコラボレーションを促進する「先進的ワークプレイス」という3つの設計コンセプトが重視されている。
日本HPでは、ITを駆使してオフィスやデスクなど場所にとらわれずに仕事を行う「モバイルワーク」や、社内でデスクを固定しない「フリーアドレス」を積極的に推進する一方、従業員同士または従業員と顧客がオフィスで直接コミュニケーションを交わすことで「人的化学反応」が起き、創造性が発揮されて新たな価値が生まれる側面を重視している。
新社屋では、オフィスフロアの中心に配した吹き抜けを核にして、動線に沿って数多くのミーティングスペースやインフォーマルコミュニケーションスペースを配置することで、社内のコミュニケーションとコラボレーションの活性化が期待されている。
新社屋の愛称は、社内公募によって決定した「HP Garage Tokyo」だ。HPはシリコンバレーの発祥の地と言われるカリフォルニア州パロアルトのガレージで創業したが、その創業精神に立ち返りつつ、新本社から日本のITの新しい時代を創っていこうとの思いが込められているという。新本社は企業理念を象徴的に示し、従業員の拠り所となる場と言えよう。
(注1)シービーアールイー(CBRE)「自社ビル事情&賃貸ビル事情」『オフィスジャパン』2013秋季号より引用。
(注2)先進的オフィスづくりのその他の事例分析については、拙稿「イノベーション促進のためのオフィス戦略」『ニッセイ基礎研REPORT』2011年8月号を参照されたい。
http://www.nli-research.co.jp/report/report/2011/08/repo1108-3.html
クリエイティブオフィスの考え方については、拙稿「クリエイティブオフィスの時代へ」ニッセイ基礎研究所『研究員の眼』2016年3月8日を参照されたい。
http://www.nli-research.co.jp/report/detail/id=52469
-
vol.29
スペシャリストの智
CREカンファレンス2021-2022・レポート
ニューノーマルとは何か。
次世代の成長戦略を考える。 -
vol.28
スペシャリストの智
CREカンファレンス2020-2021・レポート
この時代だから
見えてくる
成長戦略とは -
vol.27
コロナ禍は企業に何をもたらすか
事業転換を模索し筋肉質に生まれ変わる
(土橋 道章氏) -
vol.26
未曾有のパンデミックで見えた
新たな危機管理
企業経営にとって対処すべき課題とリスク
(佐山 展生氏) -
vol.25
これからの不動産戦略に
欠かすことのできないESG
(堀江 隆一氏) -
vol.24
スペシャリストの智
CREカンファレンス2019-2020・レポート
躍進か衰退か
企業の成長力を考える
今後求められる企業経営と不動産戦略 -
vol.23
「好き嫌い」から始める競争戦略
成熟社会における企業価値とは何か
(楠木 建氏) -
vol.22
これからの成長戦略に向けた
企業の体質改善
(大工舎 宏氏) -
vol.21
経営者視点で見る令和時代のM&A
(岩口 敏史氏) -
vol.20
新時代の事業承継
進化のための受け継ぎ方
(田中 歩氏) -
vol.19
スペシャリストの智
CREカンファレンス2018-2019・レポート
今からの企業競争力を問う
拠点機能の変化と不動産戦略 -
vol.18
モノからコトへ
消費行動が変化するなか
企業価値と不動産はどうあるべきか
(ロバート・フェルドマン氏) -
vol.17
新世代型都市開発と
これからの企業オフィス戦略
(谷澤 淳一氏) -
vol.16
クリエイティブオフィス戦略で
新たなイノベーションを
働き方改革を「場」の視点から再構築
創造性を促すワークプレイスのススメ
(百嶋 徹氏) -
vol.15
スペシャリストの智
CREカンファレンス2017-2018・レポート
2018年成長する企業の資質とは。
企業体力強化に備える不動産戦略のポイント。 -
vol.14
変革の時代に日本企業の強みを生かす
CRE戦略を通した「稼ぐ力」の向上
今後10年の企業ビジョンとCRE戦略の重要性
(冨山 和彦氏) -
vol.13
企業価値向上のカギを握る
CREプロフェッショナルの社内育成
社内外の専門家のネットワークを最大限に活用する
(村木 信爾氏) -
vol.12
企業価値を高める
CRE戦略の一環としての
ワークプレイス改革
(齋藤 敦子氏) -
vol.11
中堅中小企業が今取り組むべきCRE戦略とは
不動産の棚卸しから、
事業継続、相続・承継問題まで
(平川 茂氏) -
vol.10
リノベーションによる耐震、省エネ、環境保全で
企業価値の向上
求められる多様なニーズに対応した
オフィスビルのリノベーション
(河向 昭氏) -
vol.09
スペシャリストの智
CREカンファレンス・レポート
クラウド化がもたらした加速する社会基盤。
今の企業価値を考える。 -
vol.08
企業価値向上のカギとなる
クラウド導入で進めるシステム改革
顧客のビジネス価値を高める企業姿勢
(保科 実氏) -
vol.07
クラウドを利用した動産管理と企業価値の向上
「e-Leasing」と「CRE@M」が目指すもの
(長谷川 善貴氏) -
vol.06
環境保全しながら
経済合理性のある土地活用を
(西村 実氏) -
vol.05
不動産を流動化させて経営の劇的な改善を
バイアウト投資市場からみた企業のCRE戦略
(南黒沢 晃氏) -
vol.04
現在において考えるべき
リスクマネジメントとCRE戦略
(渡部 弘之氏) -
vol.03
企業の成長に欠かせないM&A戦略。
CRE(企業不動産)の位置づけが重要に
(大山 敬義氏) -
vol.02
未来に向けたCRE戦略
外部の専門企業との連携が鍵に
(百嶋 徹氏) -
vol.01
不動産市況が好転した今年こそ
CRE戦略再スタートの元年に
(土岐 好隆氏)