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はじめに

上野には行きますか? 上野といえば、パンダのいる動物園、年末に賑わうアメ横、そして春のお花見など、季節ごとにさまざまな表情で私たちを楽しませてくれる場所だ。そうした意味では、多くの人にとって、上野は足繁く通う、というところとはちょっと違うのかもしれない。

ところがアートに興味のある人にとって、日本国内においてこれほど重要な場所はないだろう。“上野の森”とも言われる緑豊かな『上野恩賜公園』の周辺には、さまざまな美術館、博物館が集まっており、その要として、静かに公園の奥に佇むのが「トーハク」の愛称で知られる『東京国立博物館』だ。

第五回目となる『Weekend Museum』は、上野が文化芸術の集積地となるきっかけとなった上野恩賜公園と東京国立博物館の歴史、上野アートエリアの中心のひとつとして存在する現在のトーハクの姿を、アートイベントの企画などを手がけるアートエヴァンジェリストとしても活動する、フリーアナウンサーの羽田沙織さんとともにたどる。


映画やドラマのロケにもよく使われている本館の大階段。「圧巻。この階段を降りるだけで素敵な経験ですね。足が震えました」と羽田さん

上野恩賜公園は街中にある文化の杜

上野の街中に面した袴腰広場から上野恩賜公園に入り、彫刻家・高村光雲の手による西郷隆盛像を見つつ、春には大勢の花見客で賑わう、緩やかな坂になった桜並木を進む。右手にはジャンルを問わずさまざまな企画展を行う「上野の森美術館」、すり鉢山古墳の向こうにはクラシック音楽の殿堂「東京文化会館」、そして左手奥には「恩賜上野動物園」が見える。

上野恩賜公園は武蔵野台地の端にある「上野台」に位置しており、公園内から不忍池や上野駅方向をのぞめば、そこは小高い丘というよりは、山の上にいるのに近い印象を受ける。安藤広重が描いた「名所江戸百景 上野清水堂不忍ノ池」に描かれているように清水堂と不忍池にはかなりの高低差がある。“上野山”と呼ばれるのも合点がいく。

噴水のある竹の台広場の右手には、世界文化遺産に登録された国立西洋美術館、その先には国立科学博物館、左手には「若冲展」に湧いた記憶も新しい東京都美術館がある。そして、その噴水の向こう、さらに奥にたたずむのが『東京国立博物館』だ。公園の外れから通りを挟んだ向こうにあり、実際には上野恩賜公園の外に位置している。

天気の良い日には、この噴水を囲むウッドデッキや、その周辺のカフェやレストランのテラス席では大勢の人が、それぞれ思い想いにくつろいでおり、上野の森はさながら小さなセントラルパークといった趣きを湛えた場所になっている。


別称、日本ギャラリーの「本館」。トーハクのシンボル的な建物だ

紆余曲折ではじまった博物館の歴史

そもそも東京国立博物館が上野の森に建てられたのはどのような経緯があったのだろう?

上野が歴史の表舞台に出てくるのは、三代将軍・徳川家光が江戸城の鬼門を封じるために、この地に東叡山寛永寺を建ててからだ。その後、将軍家の墓所として、さらには江戸庶民の花見の名所として長く親しまれた。しかし、明治維新に際して、旧幕府軍の彰義隊と新政府軍がぶつかり合う上野戦争が繰り広げられ、寛永寺の大伽藍は焼失し、上野の森は焼け野原となってしまった。

その後、病院を立てる計画や軍用地としての検討が進む中、上野の自然が失われるのを危惧したオランダ人軍医のアントニウス・ボードワンは上野を公園として残すことを進言し、1873年(明治6年)、上野の森は日本初の公園に指定された。

実は東京国立博物館の前身となる文部省博物館が置かれたのは上野ではなかった。1872年(明治5年)に行われた文部省博物局の博覧会は上野にほど近い湯島聖堂の大成殿で行われ、これが(政府による)日本における博物館のはじまりとなった。その後、湯島から内山下町(現在の日比谷)に移された博物館は壮大な自然史博物館として構想された。

1876年(明治9年)、上野公園は開園に際し、博物館の所管となった。1881年(明治14年)には英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計で赤煉瓦造の博物館新館(旧本館)が上野公園内に竣工、第二回内国勧業博覧会の美術館として使用された。博覧会の終了後、翌1882年(明治15年)に恒久施設として博物館に引き渡され、ここに上野における博物館・美術館の歴史が刻まれだした。

トーハクは歴史的建築物のショーケース

東京国立博物館は、大きなゆりの木の傍らに噴水池のある庭を中心に、周囲に様々な展示館が建てられている。正門から入って正面の「本館」、左手にはネオ・バロック様式の洋風建築の「表慶館」、右手には谷口吉郎設計の「東洋館」がある。表慶館と本館の間の奥にはもっと新しい安井建築設計事務所設計の「平成館」、表慶館の裏手には谷口吉生設計の「法隆寺宝物館」がある。さらに本館敷地の外になるが、西門のはす向かいには日本近代洋画の父、黒田清輝を記念した、岡田信一郎設計による「黒田記念館」がある。


ドーム部分の緑青の色が青空に映える「表慶館」

6つの建築物があるトーハクだが、ここにはコンドル設計による旧本館は存在しない。煉瓦造りの旧本館は、1923年(大正12年)の関東大震災に耐えきれず、展示が行えないほどの大きな損害を受けた。その後、渡辺仁設計による「帝冠様式」(コンクリート造の上に瓦屋根を乗せたスタイル)の現在の本館が復興本館として1938年(昭和13年)に建て替えられるまで、1908年(明治41年)に竣工した宮内省技師の片山東熊が設計した表慶館がその代わりを果たした。

この中でぜひ注目したいのが、東洋館と法隆寺宝物館の二館だ。実はこの二館は谷口吉郎(父)と谷口吉生(子)という、親子二代の美術館建築の巨匠の作品となっている。谷口吉郎による東洋館はコンクリート造ながら、柱や梁、軒といった日本的な建築表現が取り入れられた空間演出がなされている。ニューヨーク近代美術館などを美術館建築を極めてきた谷口吉生による法隆寺宝物館はスクエアなラインによる抽象表現によるモダニズム建築で、前面に配された水盤やエントランスの巨大な空間など独自の手法が興味深い。親子の異なる建築表現の競演が堪能できる。


なんだかイギリスの街の印象がただよう「黒田記念館」


リニューアルでいっそう使い勝手がよくなりつつも、「東洋館」の印象は建築当初のまま


同じ谷口吉生設計による京都国立博物館平成知新館との共通点を探してしまう「法隆寺宝物館」